信州の鎌倉とは?

ところでここで、ちょっと歴史の勉強会になってしまいますが、ガマンしてくださいね。

鎌倉時代に、頼朝が、この塩田平(信濃国小県郡塩田庄)に地頭を任命した。任命されたのは、彼の信頼が最もあつかった惟宗忠久(後の島津忠久)であり、全国的にみても、最も早い任命であることをみても、塩田地方を、頼朝が重視してことが想像できる。


北条氏も頼朝と同じように信濃国をたいへん重要視し、信濃国守護(今の県知事に当る)をこの地に置いた(その時の守護は北条重時、北条氏で宗家(本家)につぐくらいの家柄)。重時が信濃守護となったころ、塩田は信濃の政治・文化の一大中心であった。 塩田北条氏は、ここを本拠とし、三代57年、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡するとき、一族あげて奮戦、宗家のために殉じるまで続いた。


その後この塩田地方は、東信の雄族村上氏、武田信玄が重要視したが、天正10年(1582)武田氏が滅亡して後、小県郡一円は真田氏の領有することとなった。その翌年−天正11年、現在の上田城を築いた真田昌幸(幸村の父)は、城を中心として上田城下町をつくり、ここを小県郡の政治・経済の中心とした。このとき、鎌倉時代から、小県地方の政治・文化の中心であった塩田城と塩田城下町ははじめてその機能を失い、一農村地帯と変っていった。


遠く一千数百年前の古代からはじまり、鎌倉・室町期を通して400年前の上田築城に至るまでの塩田平は、常に信濃の、そして東信濃の政治・文化の一中心であった。


そしてこの塩田平とその周辺には、20にあまる国宝・重文・県宝級の文化財が、数百年の風雪に耐えてほぼ完全に保存されており、地方ではまれにみる”文化財の宝庫”といわれている。

以上参照文献ー塩田平の文化と歴史 昭和58年版

お疲れ様でした!!

そんなわけで、この地が信州の鎌倉と言われているんです。 おかちゃんの小学生のころ、塩田平の一大区画整理事業があったのですが、そのときに沢山の土器類(古くは平安時代)が多数出土しました。  おかちゃんの小学5年生のとき、塩田の民話を集めようということで、そのときの組員全員でお年寄りから民話を聞いて文集を作りました。 其の文集をいま探しているんですが出てこないんですね、なんせ43年も前のことですから!!

交通電車    : 新幹線 長野新幹線 上田駅下車 信濃鉄道 別所線に乗り換え                       マイカー      : 上信越道 上田・菅平インターより約20分

平成16年1月4日 作成、  1月11日 追加変更 

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